「民間航空発祥の地 稲毛100周年記念講演会」の報告
2012年11月18日
「未来の超音速旅客機「MISORA」ー航空機開発の歴史と展望ー」
=東北大学流体科学研究所 教授 大林 茂 氏=
【講演要旨】
・世界で一番早いのは偵察機「SR-71」でM=3.2(音速の3.2倍)、その他では軍用機では、大型爆撃機「XB-70」でM=3.0、また、戦闘機「F/A18」M=1.8などがある。民間機では、「コンコルド」M=2.0などがある。
・コンコルドもB747も初飛行は1969年だった。
・日本の最近の民間航空機開発では「ホンダジェット」と「三菱リージョナルジェット(MRJ)」がある。
・MRJでは同型競合機と比べて燃費が26%改善され、騒音は52%減になる予定。
・次世代超音速旅客機(SST)の開発ではなんと言っても、衝撃波(ソニックブーム)の解決が鍵になる。
・衝撃波とは何か。みんなが経験しているものでは雷鳴がある。あれは、放電によって発せられた超音速の音が衝撃波を作っている。
・船が進んでいるときに、後方に八の字状に拡がる「引き波」も同じようなものである。これは、音ではないが船が前方に押し出す波が、波の速度よりも船の速度が速いと出来るものだ。この「引き波」は船にとっては大きな抵抗になる。
・SSTが音速を超えると、空気が押しのけられて、空気の強烈な波が出来る。地上では、これが爆発的な音として聞こえる。
・ソニックブームを減らす方法の一つは「軸対称線形理論」である。これは、旅客機の先端の形状を工夫して減らそうとするものである。先端を丸くしたり、細長くすることで減らせる。JAXAはこの方法を研究している。
・我々、東北大学では「超音速複葉翼理論」で減らすことを研究している。
・この理論の歴史は古く1935年に「ブーゼマン」が提案した。
・これを基に、2004年に楠瀬一洋招聘教授が提案したのが発端。
・簡単に言うと、2枚の翼の間で衝撃波を相殺してしまおう、とするものである。
・同時に抵抗も前後の押し合いで、相殺することになる。
・船では既に、双胴船として実用化している。双胴船では八の字に拡がる「引き波」は発生しない。2つの胴体で相殺している。
・しかし、ブーゼンマン理論は当時、2次元線形理論で、3次元計算が出来ずに実用化できなかった。今はスパーコンピュータがあるので計算できる。
・東北大ではこの複葉機理論を使って大型の複葉SST「MISORA」の開発を考えた。
・現在は、「数値流体力学(CFD)による3次元翼の計算」や「25mmのモデルを使っての超音速自由飛行実験」「低速ラジコン機飛行実験」などを行っている。
・実験とCFDによるシミュレーションの結果は良く一致して、2枚の翼の間で相殺されている。
・モデルが非常に小さいが、大きいモデルで実験するには大金がかかる。
・SSTの技術でイノベーションを起こすには何が必要か。日本は太平洋に面している。アジアとの距離はM=2程度として、2から3時間で行くことが出来る。
・これは日帰り出張を楽にこなせる時間だ。
・大型のSSTは経済性や環境適合性やハブ・スポークでの優位性に疑問がある。
・中小型機やビジネスジェット機ならば、小型機による騒音の軽減、直行便による時間の短縮、LCCとの差別化などで優位性がある。
・小型機で地方空港から直行すれば、羽田や成田に行かなくてすむ。羽田や成田までの時間を考えると、SSTでの時間短縮のメリットがあまり感じられなくなる。
・そこで、「MISORA」プロジェクトとしても、最初は大型機を考えたが、小型機の方が優位と考えている。
以上
民間航空発祥の地 稲毛から大空へー『ものづくり』立国の原点ー
=航空史家 村岡 正明 氏=
【講演要旨】
・どこの町にも良いところはあるが、住んでいる人には見えないようなことがある。しかし、稲毛は全国的に見ても、世界的に見ても特徴のあるすばらしいところだ。
・稲毛には日本の航空の歴史がある。しかし、知る人は少ない。日本の航空100年の歴史をきっかけとして、これを、是非知って欲しい。
・明治45年5月に奈良原三次さんが、この稲毛に日本で初めての民間飛行場を開設した。ちょうど100年前になる。
・それに先立つ、明治43年12月に徳川大尉と日野大尉が代々木練兵場で、初めての動力飛行を行った。
・奈良原さんはこの初飛行の段階では軍を辞めていた。しかし、徳川・日野の初飛行には、奈良原さんが修理や機材を提供するなどで、2人を助けた。この援助がなければ、2人の初飛行はもっと後になっただろう。
・その約4ヶ月後に、奈良原さんが所沢で国産機の初飛行を行った。所沢は我が国初めての飛行場だった。これは陸軍や海軍の研究会が中心となって作った官営の飛行場だった。
・奈良原式2号機は前にエンジンがあった。この時に、前にエンジンがあった機体は世界に2機だけだった。先進的な機体だった。これが先進的技術だ、とは当時誰も考えていなかったと思う。世界の情報は少なかった。
・奈良原さんの初飛行は高度4mで60mぐらい飛んだ。
・徳川大尉は徴兵された白戸軍曹を非常にかわいがった。徴兵だから、満期になれば辞めていくことが分かっていながら、奈良原1号機は地上滑走しか出来なかったが、これを使ってお教え、奈良原式2号機で日曜日も操縦を教えた。
・白戸さんは裏表なく純朴で、誰からも好かれた。これが、徳川さんと奈良原さんや伊藤さんなどを結びつけて、民間航空の発展に繋がった。
・伊藤音次郎は大阪出身で鉄工所の職工から飛行機をやりたくて、単身上京し、奈良原さんに弟子入りした。
・伊藤さんは後に多くの飛行機を作った。東大教授の田中館さんの弟子に、志賀潔さんがいた。この人が奈良原さんのチームの技師長をしていて、伊藤さんはこの志賀さんから飛行機の設計を教えてもらった。
・当時は軍関係者と学者たちと民間人が三位一体となって初飛行のために協力した。これは極めて大事なことだった。これがなければ、徳川・日野の初飛行はなかっただろう。
・一方、この初飛行の実施や修理などの経験から、飛行機の操縦や製作に大きな経験を蓄積することが出来たのではないか。これが民間航空の発展に繋がった。
・エンジンを前に置く飛行機の設計・製作もこの経験の中から生まれたのではないか。前置きエンジンだけでなく、飛行機そのものをアジアで初めて作ったのは奈良原さんのチームだった。このことは、声を大にして言って良いのではないか。
・大口豊吉さんは飛行機を実際に製作する、加工の上でなくてはならない存在だった。
・操縦の白戸さん、設計の伊藤さん、製作の大口さん。この3人が揃わなければ、民間航空機の発展はなかったのではないか。
・稲毛飛行場は遠浅の海の波打ち際にあった。格納庫も波打ち際にあった。引き潮になると、砂浜が2〜3Kmも出来て、砂が締まった平坦地になった。
・奈良原式の4号機は「O-TORI(鳳)」号と名付けられた。明治45年3月に稲毛で初飛行を行った。これは非常に性能が良かった。白戸さんが操縦したが、「徳川大尉以上だ」と誉められた。白戸さんの操縦は非常に慎重だった。
・そこで、初飛行後、すぐの明治45年4月には「飛行大会」が行われた。
・この写真の左上にスタンプがあるが、プロペラの上にウサギが書かれている。これは、当時、飛行の先進国であったフランスで、操縦士たちが「ウサギにのマスコットをつけていると、飛行機が良く飛ぶ」というジンクスがあった。これにあやかったものと思われる。
・徳川大尉も下宿先から所沢飛行場に通うオートバイに、ウサギの縫いぐるみをぶら下げていた。
・奈良原さんと徳川さんは非常に信頼し合っていた。技術というのはこのような人同士の信頼がないと発展しないものではないか、と私は思う。
・この「飛行大会」の後に、稲毛に飛行場を作った。
・伊藤氏が書いているところによると「所沢の一隅を借りていたが、やはり、遠慮があった。もっと自由に使える飛行場を考えていた。候補として残ったのは浦安から千葉にかけての東京湾岸であった。奈良原氏がよく鴨猟に行っていたので、遠浅で引き潮になると荷馬車が通っているほど堅くなることが分かっていた。・・・」
・大正元年に稲毛に飛行場が出来たときはお祭り騒ぎで、見物人は1万人も来た、と言う。「稲毛小学校の生徒も先生に引率されてきて、奈良原氏の説明を聞いた」と新聞記事にある。
・大正4年に徳川大尉は「飛行家を目指す人間は、嘲笑の目で見られていた。」と書いている。その中で稲毛では1万人も集まっている。稲毛というのはそう言う土地だったのではないか。
・伊藤さんは稲毛の浅間神社に毎朝お参りをしていた。それから、格納庫に行った。徳川大尉の「ウサギのマスコット」もそうだが、当時、飛行家はいつ死んでもおかしくはなかった。その中で、稲毛の人たちは飛行機に携わる人たちを暖かく応援していたのではないか。
・大正5年1月8日には伊藤式恵美1号で「帝都訪問飛行」を行っている。総飛行距離は約70Km、高度は約500mと高かった。寒いので、日本酒を飲みながら操縦していた。
・帰路の途中で、エンジンがプスプス言い始めたが、何とか、稲毛まで帰り着いた。当時の飛行は命がけだった。
・白戸さんも伊藤さんも愛弟子を事故で失っている。そう言う痛手にも打ち勝っていかなければならなかった。
・このような中で、「飛行大会」というものの意味は、「ものづくり」の意味を日本に問いかけたのではないかと思っている。日本らしい「ものづくり」の意味を全国に伝えるのが「飛行大会」ではなかったのではないか。
最後に、確かでないところもあるのですが、白戸栄之助氏、伊藤音次郎氏、大口豊吉氏の子孫の方の話がありました。