1989年頃、反対同盟;旧熱田派の一部の人達(石井新二、相川勝重、石毛博道、柳川秀夫ら)が闘争の終結を模索し始めていました。そして、千葉大教授で芝山町に住む村山元英さん等とともに『地域振興連絡協議会』と言う組織を結成しました。この『地域振興連絡協議会』を発展させる形で、「隅谷調査団」を調停役とする『シンポジュウム』が1991年11月21日から1993年5月24日まで開かれました。しかし、この『シンポジュウム』には何故か村山教授は参加しませんでした。 『シンポジュウム』には旧熱田派(この頃には<熱田派>と言ってもその組織的な実態はなくグループ毎に勝手に動いている状態でした。)と運輸省、千葉県が参加していました。
そして、この『シンポジュウム』を発展させる形で、「隅谷調査団」の調停の元に『円卓会議』が1993年9月20日から1994年10月11日まで行われました。この『円卓会議』には旧熱田派、運輸省、千葉県の他に住民代表として成田空港対策協議会の鬼沢伸夫会長、ネットワーク芝山21の相川勝重、大栄町青年会議所の高柳功等が参加していました。しかし、“住民代表”と言うものの、相川勝重は旧熱田派で高柳功は旧熱田派と友好関係にあり、鬼沢伸夫は完全空港化を推進する立場で、これらの人が住民から『円卓会議』の参加者として正式に選ばれたわけではなく、真の“住民代表”として、住民の総意を代表する立場にはありませんでした。
そして、この『円卓会議』の中で叫ばれ始めたのが『共生』と言う言葉なのです。すなわち、「成田空港と周辺の住民は共に生きて行かなければならない。」とする考え方なのです。
そして、この『円卓会議』の結論として、「政府は強制代執行は行わない。住民は平行滑走路の建設は認めるが、横風用滑走路の建設は平行滑走路が完成するまでは凍結し、その後、住民と話し合いに入る。」などを中心とした22項目を合意しました。
そして、この合意事項が守られているかどうかを検討する機関として作られたのが、『共生委員会』なのです。