航空事故調査の謎
  成田空港2003年1月27日の事例
                                    

2004.9.1 気象予報士 岩瀬松治

はじめに

 2003年1月27日エアージャパン所属のボーイング767-300型機が、成田空港の北側から進入し、21時49分暫定B滑走路南端をオーバーランして停止しました。追い風でした。
 国土交通省の航空・鉄道事故調査委員会は、航空重大インシデント調査報告書(以下、「報告書」と略記)を平成15年9月26日に公表しました。調査委員会は、追い風滑走路であっても「必要着陸路長及び滑走停止距離」は余裕があり安全に着陸できたと推定し、原因は「機長が意図したよりも速い速度で進入着陸し、接地位置が大幅に延びたため・・」と報告しています。
 問題は“追い風でも着陸できたはず”ではなく、“なぜ追い風方向に使用滑走路を変更したのか”という点です。当該機が着陸するころ突風も吹き、危機一髪の状況でした。謎の焦点は、この解明を事故調査委員会が避けている点です。
 そこで、気象状況と航空管制の経緯を照合し、事故調査の問題点を検証することとします。資料は本件報告書の他、主に気象庁及び千葉県大気汚染測定局のデータを使用しました。
 なお、事故調査委員会の報告書は、下記のホームページでほぼ全文ご覧になれます。
http://www.rinku.zaq.ne.jp/sakuma/030127.html

1 気象状況の謎

 当日は発達中の低気圧が日本海を北東進し、太平洋沿岸では南よりの強風が吹いていました。しかし、内陸は弱い北よりの風が卓越していました。

1-1 寒冷前線の位置
 事故調査委員会は報告書に『空港付近に寒冷前線があり、積乱雲や前線等の通過等を考慮すれば、ウィンドシャーやマイクロバースト発生の可能性を予想することはできたと推定される』と記述しています。
 前線位置を検証した結果を第1図に示します。前線解析は極めて困難でした。内陸の地表付近を高さ数百メートルの冷気層(以下「接地冷気層」と記述)が覆い、この冷気の気温が、寒冷前線西側の寒気よりも低かったのです。このため、寒冷前線が接地冷気層の上を素通りし、地表の気温や風向が変化しません。前線の位置は、ほぼ全国102官署の気象変化グラフ、3時間ごとの天気図、第2図の空間断面などを解析し推定しました。
 第3図は27日21時の東日本域の解析図です。寒冷前線は、石廊崎と大島の中間にあり、これより北側の前線推定区間は白抜き記号で示しました。
 寒冷前線の東進速度は、9時から21時までの間、太平洋沿岸で平均時速49kmです。オーバーラン時の寒冷前線は、成田空港の西約50km付近で、事故調査委員会が認定した『空港付近』にはありません。

1-2 顕著な沿岸前線
 第3図で沿岸部の停滞前線記号は『沿岸前線』です。局地前線の一種で、その高さ・長さが通常の前線のおよそ1/10の小型前線です。
 当日の沿岸前線は、内陸側が北よりの弱風で気温約4℃、海側が南よりの強風で気温約14〜16℃、境界の前線幅が1〜5kmと非常にシャープでした。銚子は、南風の最大瞬間風速が29.7m/sの暴風でした。
 境界層は内陸側に倒れ込んでいます。この境界を航空機が横切るとき、対気速度の急変に遭遇すると、操縦士はWIND-SHEARの標題でその高さや程度を管制塔に通報します。この報告等を検討すると、空港周辺の接地冷気層の高さは100〜150m、沿岸前線の厚さはおよそ100mです。

1-3 危機一髪の突風
 第4図は、オーバーラン直後22時の千葉県域の解析図です。第3図でも沿岸前線上に小低気圧が三つ解析されました。第4図で鹿島灘の低気圧は、21時房総半島中部×印にあり、21時半ごろ空港の南東10km付近を北東進しました。空港の東には999hPaの小さな高気圧が解析されます。
 当該機が着陸するころ追い風・横風を強める西よりの突風が吹きました。太い破線が、西風突風の先端です。この突風は空港を東進中急速に強まり、風速10m/sを超える強風となりました。空港のドップラーレーダーで観測すると、同機が着陸したころ空港の東6kmで西風20〜30m/s(後述する第6図中段の斜線域)、さらにその後30〜60m/sの強風となりました。
 風速30m/s前後の突風に遭遇したら、着陸態勢の航空機は耐えられないでしょう。まさに危機一髪!でした。この突風の継続時間はおよそ10〜15分です。 

1-4 突風の構造
 数分〜数kmの違いで大事故になりかねなかった点を重視し、突風の構造について調べます。この突風は、対流雲からの下降噴流に起因すると考えられるのですが、通常の冷気外出流とは異なるため、吹き始めのラインを『突風線』と呼称することとします。

類似例との比較
 成田空港の気圧と風速のグラフを、第5図に示します。21時48分ごろの変化は、2003年10月13日に成田空港で観測されたダウンバーストや、2002年10月15日に福井で観測されたガストフロント(織田町でマイクロバースト)と酷似しています。また、1991年12月11日羽田空港で観測されたマイクロバーストにも類似しています。羽田の事例解析は気象庁の測候時報1993藤田哲也氏講演記録に掲載されています。成田と福井の事例調査は、下記の東京管区気象台のホームページをご覧下さい。
  http://www.tokyo-jma.go.jp/sub_index/bosai/disaster/saigai.htm
 気圧変化は、いずれも突風時に2hPa程度の急上昇を示しています。この気圧急昇は、上空冷気の発生を示唆し、局地天気図上では小さな高気圧として解析されます。定説では、この上空冷気の『強い下降気流』がダウンバーストで、地表に衝突し突風となって吹き出します。
 この日、突風・強雨を伴う気圧急昇は、成田・銚子・千葉・横浜などで記録されています。

突風の構造
 第6図は空港周辺の詳細解析図です。風記号は、時空間変換した1分ごとのデータで、2分間平均値2m/s が1本、旗矢羽は10m/sです。
 上段の図は、当該機着陸の約8分前で、空港はまだ北風です。西側をみると太い破線で示した地表の突風線が迫っています。斜線域は、ドップラーレーダー観測で10〜15m/sの速さで接近する西よりの強風域、ただし高さは地上50m以上です。
 中段の図は、当該機が着陸したころです。地表風10m/の強風域がB滑走路付近を通過中です。斜線域は、ドップラー速度20〜30m/sで遠ざかる強風域です。レーダーの仰角は0.7°ですから、この強風バンドは近いところで海抜高度140m、遠いところで170mほど、強風は上空ほど先行していると判断されます。
 下段の図の実線は、空港の気圧です。横軸は上の時空間変換図とほぼ一致させたので、空港付近に小さな高気圧があり、空港上空に下降する冷気の存在が推察されます。
 ドップラーレーダーや空港周辺の風の変化を解析すると、突風現象は1.0〜1.2km/分の速さで東進しています。時速60〜72kmです。突風線は、寒冷前線より50km以上東側に存在し、寒冷前線の平均東進速度49km/hより速いので、明らかに寒冷前線と別の現象です。

対流雲の発生状況
 ダウンバーストは、通常積乱雲や雷雨に伴って観測されます。しかし、当時成田空港では、雷現象も積乱雲も記録されていません。21時、関東地方のすべての観測地点で、雷や積乱雲は観測されていません。気象科学事典が『ダウンバーストは、積雲や積乱雲から生じる』と記述しているので、仮に積雲だったとします。
 この事例で強い降水域を示す主なエコーは、空港の南東にほぼ停滞する沿岸前線に沿うものと、空港の西15〜20km付近を北東に移動するグループがありました。
 上層の風を連続して観測するウィンドプロファイラー資料を検討しました。勝浦・水戸の高度3km以下では、21〜22時ごろ風速25〜40m/s風向南よりの下層ジェットが吹いています。熊谷の下層風は21時ごろから風速20m/s前後の南西風に変わっています。関東地方の東側には南風、西側には南西風の流れが存在していたと推察されます。
 21時の高層観測データを検討すると、風上の八丈島は高さ2100mまで対流不安定層です。成田空港の北西約40kmの舘野では、2000mより上空は対流安定層で層状雲と推察されます。
 資料を総合すると、対流不安定な下層の南風は、沿岸前線に乗り上げ対流雲を形成します。一部の南風はさらに北上し西側の南西風と収束して対流雲を形成します。厚い乱層雲の所々に埋没した対流雲が存在し、対流雲は中層の南西強風に流されて北東に移動、という状況です。

冷却を促進する乾燥空気は?
 成田周辺では、西風突風域に入っても気温変化は±1℃程度にすぎません。対流雲を形成した暖気は地表気温約14℃、湿球温位約287kですから、下降中に気温が約10℃・湿球温位も約10kも下がって地表に到達しているのでしょうか?
 対流雲中の強い下降気流は、氷結物の融解や雨滴の蒸発による冷却によって生じます。当時の0℃層はおよそ3000m、対流雲の雲頂高度はおよそ3000〜4000mです。
 また、対流雲外側からの乾燥空気の取込みや雲底下の乾燥空気が、冷却を促進することも知られています。しかし、この事例では、地表付近の湿度は広範囲で100%に近く、舘野・浜松・八丈島上空はいずれも高度7000m前後まで飽和状態です。
 気圧変化から上空冷気の発生は確実視されるのですが、その形成過程の確証が得られません。

仮説:下降噴流は地表に達しなかった
 対流雲中の下降噴流は、接地冷気の気温まで降温せず、地表に到達しなかったとも考えられます。
 ドップラー観測による低空30m/s前後の風速も、地表の突風線の移動速度約20m/sと差がありすぎます。
 そこで、仮説の断面模式図を第7図に示しました。時刻は当該機が着陸した21時49分ごろです。流線はイメージです。下降流直下で接地冷気層は凹んで薄くなり、冷気層内で周辺部に広がる勢いが地表の突風となる。冷気層は東側の突風先端付近で盛り上がって厚くなります。対流雲からの下降噴流は、冷気層上を滑昇して広がり、地表の突風より先行します。この外出流は、風速30m/s 以上となるが、突風線先端で南西風の上昇流となり新たな対流雲の発生維持に寄与する・・・これが仮説です。

1-5 冷気層上のダウンバーストの謎
 島国の日本は、海上を吹走した湿潤気流が入りやすく、この気流は対流不安定層のことが多いため、200〜300メートルの上昇で積乱雲となります。梅雨前線や沿岸前線は、気層上昇の誘因となり、前線の北側およそ50km以内で豪雨が発生することが知られています。このとき、前線の北側は接地冷気層です。
 その時、ダウンバーストが発生しているのか? 下降噴流は接地冷気層を破壊し拡散するのか? 本稿では気象の謎として問題提起し、識者の解明に期待することとします。


2 滑走路変更の謎

2-1 なぜ追い風着陸にしたのか?
 本件報道直後に気象予報士会内で、進入方向は北か南か? と議論が交わされました。航空にも詳しい予報士の方は「明らかに北北西風、B滑走路南側(から)」と断言。しかし、北側からの追い風進入と確認し、一同は『航空・鉄道事故調査委員会による科学的で正確な調査』を期待していました。
 事故調査委員会の報告書も「機長が『何で変えたのですかね』と滑走路変更に疑問を持つ発言をしていた。」と記述しています。また、接地2分前に西北西の風最大28kt(14m/s)と通報された機長が「『すごいこと言ってるな』と発言した。」と記述しています。後者は、突風に関する発言です。
 しかし、事故調査委員会の報告書は“なぜ追い風になる滑走路変更が行われたか”について、疑問を払拭するものではありません。検証します。
【航空・気象用語の解説】
滑走路略号:例えば滑走路[34R]の数字は340°方向に離着陸する意味、Rは平行滑走路の進行右側、Lは左側を示す記号です。34RはB滑走路南端にマークされ、南側から着陸、北側に離陸します。34LはA滑走路南端、16RはA滑走路北端にマークされています。オーバーランした航空機は、B滑走路北端16Lに着陸しました。第6図を参照して下さい。
 kt(ノット):風速や速度の単位kt(ノット)は、数値を半分にするとm/s(秒速メートル)です。
 風向:風向表示は360°方位です。例えば210°は南南西から北北東方向へ吹く南よりの風です。

2-2 調査報告書が『認定した事実』
 先ず、報告書中の2『認定した事実』から、関連事項を要約・抜粋します。

21時26分ごろ、成田ターミナル管制所(以下「成田アプローチ」と略記)は使用滑走路が34Rから16Lに変更になったことを当該機に通報した。
 当時、成田飛行場管制所(以下「成田タワー」と略記)の管制官は、使用滑走路の変更理由を『管制卓の風向計が210°を指しており(注:南南西の風)、更に滑走路34R方向にウィンドシャーが存在していた』と口述した。
 同45分23秒ごろ、機長は『何で変えたのですかね』と滑走路変更に疑問を持つ発言。
 同46分39秒、成田タワーは、風が290°20kt、最大28ktと通報。(注:西北西の風)
        機長は『すごいこと言ってるな』と発言。
 同48分31秒、接地。同49分00秒停止。

2-3 調査報告書が『事実を認定した理由』
 次に、報告書中の3『事実を認定した理由』から、関連事項を要約・抜粋します。

 重大インシデント発生当時、空港付近に寒冷前線があり、積乱雲や前線の通過等を考慮すれば、ウィンドシャーやマイクロバースト発生の可能性を予想することはできたと推定される。
 21時30分と同44分にA滑走路側にウィンドシャーが通報されていた。
 21時46分から風が強まり、更に21時50分から22時ごろまではガストを伴っていた。
 同機のウィンドシャー警報システムは作動しておらず、通報された視程及び風向・風速は、同機が着陸するための制限値内であったと推定される。
 使用滑走路の変更は、風向計が210°を指し(注:南南西の風)、更に滑走路34R方向にウィンドシャーが存在していたために、変更した方が良いと管制官が判断したことによるものと推定される。
 必要着陸滑走路長及び滑走停止距離の観点からは、滑走路16Lを使用しても問題はなかった。

2-4 報告書の問題点検証
 報告書中の疑問は幾つもありますが、焦点は『使用滑走路の変更は、風向計が210°を指し(注:南南西の風)、更に滑走路34R方向にウィンドシャーが存在していたために、変更した方が良いと管制官が判断したことによるものと推定される。』と記述した部分です。
 『事実を認定した理由』は、『認定した事実』と異なり、そこには調査委員会の確認意志が加わるはずです。しかし、上記記述は、管制官の口述を当然のこととして黙認したとしか読み取れず、『原因』『所見』にも再登場しません。問題点を整理し、検証します。 
 
2-4-1 気象状況の予測可能性
 報告書は『空港付近に寒冷前線があり、積乱雲や前線の通過等を考慮すれば、ウィンドシャーやマイクロバースト発生の可能性を予想することはできたと推定される。』と記述しています。この調査委員会の判断は、続く次項で“ウィンドシャーを避けるため滑走路変更は妥当だった”と解釈される記述の伏線となっています。
 しかし、調査報告書には、いつの時点でどのような資料を使えば『空港付近に寒冷前線』があると判断できるのか、説明がありません。当日15時ごろ利用可能だった最新の数値予報図を解析しても、21時の寒冷前線の位置は東経139度です。オーバーラン当時、寒冷前線は成田空港の西約50kmも離れていたことは、前章で解析結果として記述しました。寒冷前線が空港付近を通過したのは推定23時ごろです。また成田空港では、積乱雲や雷の観測がなく、マイクロバースト発生の可能性を予想することは困難です。事故調査委員会の見解は、間違っています。 
 事故調査委員会は指摘していませんが、この日のウィンドシャー遭遇報告15通の原因は、すべて沿岸前線が関与しています。沿岸前線をはさんで冷気と暖気の気温差は10°以上もあり、また北風と南風のベクトル差も30〜50ktと非常に大きいものでした。沿岸前線は、その発生と存在は数値予報図で容易に判断できます。しかし、その位置を数キロメートルの誤差で予測することは極めて困難です。この事例について、三好建正氏は日本気象学会予稿集で、詳細な数値モデルを使用し19時のデータを取り込んで計算しても22時の位置は成田の西に計算されること(図では北西約20km)を示しています。沿岸前線の位置は、実況資料で確認することになります。

2-4-2 使用滑走路の変更時刻
 使用滑走路の変更は、タワーの管制官が決定します。その滑走路変更をいつ決定したのか、調査報告書に記述がありません。滑走路変更時刻がキーポイントとなるので、面倒ですが当該機の交信記録やウィンドシャー遭遇報告などから推定しました。推察過程の記述は省略しますが、、タワーの管制官が滑走路変更を決断し措置した時刻は、21時10分から同20分ごろと推定されます。

2-4-3 滑走路変更の条件
 滑走路の選定方法は管制方式基準に定められています。原則として『地上風が5ノット以上の場合は風向に最も近い方位の滑走路』を選定します。例外規定である『滑走路の長さ、飛行経路、騒音軽減、着陸援助施設等の事由』『航空機が要求する場合』『指定された無風滑走路』は、本件では該当しません。北よりの風速は5ノット(2.5m/s)未満がおよそ半数含まれていましたが、『風向に最も近い方位の滑走路』が選定されて当然でしょう。

疑問1 『管制卓の風向計210°』は、本当でしょうか?
検証1 報告書には、21時00分からの気象観測通報データが掲載されています。しかし、『風向210°(注:南南西の風)』を示すデータはありません。さかのぼって調べると、20時16分の特別観測通報で風向変動幅210〜350°がありました。でも、推定される滑走路変更時刻の1時間も前です。この観測データは34L(A滑走路南端)の値です。34L以外の3測定点の20時00分〜21時30分の2分間風向と瞬間風向を3秒ごとに精査すると、西南西より南にずれる方向から吹く風は存在しません。
 仮に、34L(A滑走路南端)20時過ぎの一瞬の風向210°を直読できたとすると、そのタワー管制官が、吹き続けている西〜北よりの風を見落としたとは誰も信じないでしょう。
 風向表示器がデジタルかアナログか分りませんが、北西風が多かったので風向数字310°を210°と勘違いしたのでしょうか?
 『風向210°』の口述記録は、本当なのでしょうか ?

疑問2 『滑走路34R方向のウィンドシャー』が、理由になるのでしょうか?
検証2 『滑走路34R方向』はB滑走路南端方向と解釈されます。従って、管制官の口述の意味は『空港の南方向はウィンドシャーに遭遇する危険がある。これを避けるために滑走路を変更した』と解釈されます。
 事実は全く異なります。滑走路34Rに関するウィンドシャー遭遇報告は、18時29分、18時47分、20時17分と3通です。いずれも北向き出発機で、その遭遇位置は空港の北側です。
 この日18時以降、操縦士からのウィンドシャー遭遇報告は15通でした。うち北向き着陸の2機と南向き離陸1機の他はすべて北向き出発機で、その遭遇位置は空港北側の低空です。この事実は、南側からの進入は、北側への離陸より困難ではなかったことを示唆しています。
 この考察中に疑問を感じました。調査報告書が『滑走路34R方向にウィンドシャーが存在していた』と断言することは、単にウィンドシャー発生の気象環境が予想されることとは異なります。明らかに、操縦士からウィンドシャー遭遇報告を受信して状況判断した断定だと、初めは思い込んでいました。
 しかし、管制官も調査委員会も、操縦士報告の全文を見ていないか理解できずに判断しているようです。ウィンドシャー遭遇の報告は、まず全文が管制塔に入ります。次に、気象台に転送され気象報に付加して発表する段階では、例えばWS RWY 34R(滑走路34Rでウィンドシャーの意味)と省略され、出発/進入の別、高さや程度は分らなくなります。操縦士報告の全文(ごく簡単な略号文)を一見すれば、遭遇位置は即断できますが、データがなければ状況の把握はできません。信じ難いことですが、この操縦士報告の内容が、管制作業の流れの中で“見えなくなっている”のではないでしょうか? こう推察しないと謎は解けないし、仮定が正しいとすれば重大事故の原因となりかねません。

3 調査委員会の謎

3-1 『風向210°』を、なぜ検証しないのか?
 本件を最初に気象予報士会に提起された方は『安易な“パイロットの操縦ミス”で済ましてしまうような調査にはしないで頂きたい・・』と期待を述べていました。
 航空事故の原因は、操縦、管制、気象等すべてについて事実の確認・検証・考察が必要であることは議論の余地がないことです。主たる原因だけでなく、副次的な原因も明らかにすべきことも当然です。
 調査委員会は「追い風でも安全に着陸できたはず」として、原因を操縦の妥当性に絞り込んでいます。しかし、本件の主因は滑走路変更だったのではないでしょうか。論より証拠、21時49分オーバーランの直後、離着陸方向は急きょ北向きに戻され、21時58分北向き離陸機がウィンドシャー遭遇を報告しています。
 少なくとも、“滑走路をなぜ変更したのか?”“管制官の口述した『210°』は正しかったのか?”検討を加えることが、より安全な改善策に貢献するのではないでしょうか? 
 風向210°は、管制卓の風向指示器が異常だったかもしれません。あるいは直読した管制官の錯覚だった可能性もあるでしょう。とすると、その背景に不都合な作業環境や過酷な勤務体制の問題が無かったのでしょうか? 
 国土交通省航空局は、日本航空907便事故に関し『人間からミスを完全に無くすことはできないという前提に立った上で・・・管制業務がどうあるべきか・・・再発防止策を・・取りまとめ』ています。本件事故調査委員の垣本由紀子氏は、航空人間工学分野で操縦や管制のヒューマンエラーを研究される専門の方です。調査委員会の審議内容は知る由もありませんが、残念な結果と言わざるをえません。

3-2 類似報告書と比較しても・・
 類似3例の事故調査報告書と比較しても、本件調査報告書は、なぜか気象と管制に関する検証が著しく不十分です。

類似例1 青森空港オーバーラン 2003.2.20 
 計器着陸援助施設を使用するため追い風で進入、対気・対地速度が早すぎオーバーランしました。
 主因は報告書の通り操縦技術と読めますが、気象に関しても接地帯付近の風向風速計の観測値、当該機の飛行記録の風向風速について検証し考察しています。さらに機長の判断が何故適切でなかったのか、意識分析まで行っています。
 青森の事例は成田オーバーランの24日後で、6名の調査委員は全員成田と同じメンバーです。類似例を同じメンバーが調査し、なぜ検証に差があるのでしょうか? この点も疑問を増幅します。

類似例2 成田空港滑走路逸脱 1981.10.23
 北側から進入中、追い風に急変。気象情報との照合も克明に記述されています。推定原因とされた『機長と管制官の意思疎通不十分』も納得しやすい報告書です。

類似例3 成田空港ハードランディング 1990.3.24
 北側から進入中、一時的な追い風も受け、ハードランディング。南西風の強い日で、気象と操縦の関係が良く解析されています。報道では重軽傷者65名。

 なお、事故調査委員会の報告書には、気象通報データの転載ページに3か所もミスがあります。うち1か所は、航空資料を扱う関係者なら直ぐ発見できる初歩的な誤りです。風向変動幅は60°以上のとき報じられますが、21時30分の変動幅は30°しかありません。

3-3 独立であるべき事故調査
 今回の事例調査の中で『国土交通省内の調査委員が、同じ省内の航空関係者について調査するのでは公正さが保てない』とする意見を数人の協同研究者から聞きました。
 航空・鉄道事故調査委員会は、国土交通省内の組織です。調査委員は『科学的かつ公正な判断を行うことができると認められる者で・・衆参議院の同意をえて任命(委員会設置法)』されます。しかし、本件にかかわった委員と事務局長の経歴やご専門をインターネットで検索すると次の通りで、3名の方は生粋の運輸省出身者です。

  佐藤 淳造 委員長 東京大学大学院教授
  勝野 良平 委員 運輸省入省 東京航空局長 気象庁次長
  加藤 晋  委員 運輸省入省 航空局検査課 企画課 航空大学校長
  松浦 純雄 委員 不明
  垣本由紀子 委員 航空人間工学 操縦や管制のヒューマンエラーの研究
  山根晧三郎 委員 航空宇宙技術研究所 機体構造力学 滑走路面のすべりの研究
  福本秀爾 事務局長 運輸省入省 各課長歴任 気象庁総務部長

 平成12年に日本学術会議の人間と工学研究連絡委員会・安全工学専門委員会が、交通事故調査のあり方に関する提言を発表しています。同提言は『事故に至った人間行動を引き起こした背景諸要因を虚心坦懐に分析し、有効な教訓と対策を引き出すことが安全性向上につながる道と言える。』と述べ、その観点から事故調査機関は中立機関が望ましいとして各国の実態を紹介しています。紹介例の一つ米国では1966年に運輸省内に設立されたNTSB(National Transportation Safety Board)が、1974年に独立政府機関に改められました。そのため完全に客観的な立場から、事故調査・勧告を行うことができるとのことです。
 同様の意見は、航空事故調査に関する航空安全推進会議の要望書にも『調査委員会を国土交通省から独立した組織とすること』と記述されています。
 日米の事故調査組織を比較し、また今回の事故調査報告書を分析すると、航空・鉄道事故調査委員会の組織を国土交通省から独立した中立組織とすることが必要と痛感します。

おわりに

 今回の分析に際し、15名の気象・航空・空港周辺市民の方々から資料の提供や助言をいただきました。しかし、浅学非才 完全解明はできず謎のまま残さざるをえません。航空事故の防止は、連鎖する鎖すべての解明が必要といわれます。事例に関する謎の指摘にとどまりましたが、解明されることを期待して本報告を終わります。
 なお、このレポートは、航空・鉄道事故調査委員会、航空安全推進会議、気象予報士会、そのほか御協力いただいた方々へ提出します。また、私の所属する下記の航空公害研究会のホームページ『成田空港サーバー』で公表します。
 http://www.page.sannet.ne.jp/km_iwata/

以上

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