東峰神社と伊藤音次郎


 現在のB滑走路南端近くに、空港の敷地内に食い込んで「東峰神社」があります。この神社は、日本の民間航空先駆者の一人である「伊藤音次郎」氏が、終戦直後、この場所に入植して、苦労して農場を開いたときに、現在の習志野市鷺沼にあった「伊藤飛行機研究所」内に祭られていた「航空神社」を、この地に遷座したもののようです。その後、東峰地区の氏神様のようになっていたようです。
 伊藤音次郎氏は成田空港建設が発表された1966年の翌年、1967年に所有地を空港公団へ一番最初に譲渡しています。この時に、東峰神社の土地も一緒に譲渡されたのではないかと思うのですが、この経緯については良く分かりません。
 しかし、B滑走路が北に延ばされて2180m滑走路として供用開始する前の2001年6月16日に、航空法の制限を超える高さの立木があることを理由に、空港公団が神社内の立木を、突然伐採しました。
 これに対して、残っていた東峰地区住民らは神社の所有権と、伐採への謝罪などを空港公団求める訴訟を起こしました。
 この訴訟は2003年12月5日に「神社の土地の所有権を地区住民側に譲渡する」などの内容で和解が成立しました。

 2012年12月2日に、この東峰神社をお参りしてきましたので、その様子と、伊藤音次郎氏の簡単な経歴を下段に書いてみたいと思います。

 
  
a地点               b地点                 c地点

 「ホテル日航成田」の前を東に向かい「天神峰トンネル」を出たところにある交差点が「a地点」です。この交差点を右折します。右折してすぐにB滑走路の「東側誘導路」が見えてきます。ここが「b地点」です。両側を白い鉄板で囲われた道を進むと、右側に「東峰神社入り口」という看板が見えてきます。ここが「c地点」です。
 ここから細い道になります。車でも行けますが、私は「a地点」交差点の角にある「ローソン」で買い物をし、ここに車を置かせてもらって、歩いて行きました。

 

 細い道の奧に左上写真のように「東峰神社」が見えてきます。すぐ上をB滑走路に着陸する航空機が、手をさしのべれば届くように、通過していきます。
 神社に向かって右手にサザンカの花が咲いていました。鳥居の右手に「東峯神社」と刻まれた石柱が立っています。鳥居の上の名前とは「みね」の文字が違います。

 

 びっくりしたのは、「東峯神社」と刻まれた石柱の裏に「航空神社」と刻まれていたことです。ただ、刻まれた文字の凹みにはセメントが詰められていました。
 ここにも、何らかの因縁があったのでしょうね。鳥居を入ったすぐの左には、右上の写真のような石碑がありました。石碑には「皇紀二千六百年記念 社友會」と刻まれていますので、これも、「航空神社」の石柱同様に、伊藤音次郎氏が鷺沼から持ってきたものと思われます。「皇紀二千六百年」は1940年になります。
 なお、この右上写真の後ろの鉄板塀の一部が透けていますが、このようなところが何カ所もあり、お参りに来る人があると、警備員がここから覗いて警戒をしています。以前はお参りに来ると、必ず、警備車両が来て、警官から身分証(免許証など)の提示を求められ、目的を聞かれた、とのことです。今回は帰る際に、c地点に警備車両が2台来ていましたが、声をかけられることはありませんでした。

 なお、千葉市稲毛区の「稲岸公園」に、伊藤音次郎氏が中心になって建立した「民間航空発祥之地」の記念碑(左下写真)がありますが、この碑のすぐ近くに植えられている「キティ・ホークの丘の松」(右下写真の碑右側にある大きな松)は伊藤音次郎氏が、この東峰地区の「恵美農場」で育てたものを移植したものです。下に、千葉市が建てた説明看板にあった、説明文を載せておきます。

 

松の由来
 この松は、昭和35年、日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から贈られた、キティ・ホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を、我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い、故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に移植したものであります。
昭和46年6月 千葉市

伊藤音次郎氏の略歴
伊藤音次郎氏については多くの本があり、ネット上でも多数の資料がありますので、略歴を載せておきます。

1891年 大阪市中央区恵美須町に生まれる。
1911年5月 上京。奈良原三次氏に弟子入り。志賀潔技師長から飛行機の設計をたたき込まれる。
1912年5月末 奈良原三次、白戸榮之助と共に日本で初めての民間飛行場「稲毛飛行場」に行く。この時に白戸榮之助の練習生となり、操縦を習得する。
1915年 「伊藤飛行機研究所」を設立。
1916年1月8日 伊藤式恵美1号で民間機としては初めての「帝都訪問飛行」を敢行。
1917年1月 民間機としては初めての夜間飛行を敢行。
1917年9月 10月高潮(台風とも言われる)で格納庫などが壊滅。
1918年4月 津田沼町(現習志野市)鷺沼に移転。
1920年8月29日 愛弟子であり、天才飛行士と言われた山縣豊太郎墜落死。
1930年代 優れた飛行士や飛行機やグライダーを送り出した。
1930年 「日本軽飛行機倶楽部」(代表奈良原三次)を設立。
1937年 「伊藤飛行機株式会社」に改組。
1942年 「日本航空工業株式会社」と合併。
1945年 伊藤飛行機研究所の7家族とともに成田市東峰に入植(恵美開拓組合)。
1967年 成田空港公団に入植地を譲渡。
1968年 習志野市袖ヶ浦に転居。
1971年7月 稲岸公園に「民間航空発祥之地記念碑」建立。
1971年12月 逝去、享年80才。


航空科学博物館にある航空神社

 航空科学博物館の野外展示場の一角に、小さな神社があります。これが、現在の「航空神社」のようです。
 学芸員の方に話を聞いたところ、「詳しい経緯は私も知らないのですが、航空科学博物館が出来た頃に、『航空神社をここに遷座しよう』との話しが出て、祭られたと聞いています。」とのことでした。伊藤音次郎氏のお孫さんが、空港西側にある、三里塚に現在もお住まい、とのことでした。
 神社の写真を載せておきます。

  

 YS-11型機のエンジンナセルの向こうに小さく見えるのが、航空神社です。


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