成田空港から郷土とくらしを守る会とは?

 政府は1963年(昭和38年)8月、首都圏新国際空港を千葉県の富里に建設する方針を打ち出しました。しかし、地元では9月に反対同盟が結成され、全国の民主勢力の支援を受けて、計画を撤回させました。

 政府はこの挫折にかかわらず、1966年(昭和41年)6月に今度は成田市三里塚と芝山町を中心とした北総台地に建設することを強引に閣議決定しました。

 地元では富里の教訓にならって、直ちに反対同盟を結成しました。そして、反対同盟を支援する全ての民主団体が平等に参加する反対運動が広がっていきました。

 しかし、政府は1966年7月には空港公団を発足させ、強引に空港建設を進めようとしました。そして、1967年10月には機動隊を導入して、外郭測量を強行してきました。この後、反対同盟の中に、政府に対する怒りと、外郭測量を許した焦りが生まれてきました。

 この頃から、”全学連”を名乗る過激派集団各派が「反対運動を支援する。」として、現地に出入りするようになりました。そして、この過激派集団を反対運動の中に入れるか、入れないかをめぐって、反対同盟と支援組織の中で意見の対立が顕著になりました。

 そして、1967年12月に反対同盟は過激派集団の支援を受けることを決定し、これに反対する同盟員と支援団体の排除を決定しました。

 国と公団は1968年1月から現地の農民の切り崩しを始め、2月には立ち入り測量が強行されていきました。

 そして、反対運動は中核派を主力とする、機動隊とのゲバ合戦に変化していきました。それに連れて、支援団体の人達が参加を躊躇するようになり、集会の動員数もだんだん少なくなってしまいました。

一方、過激派集団を運動に入れることに反対した人達はA(現在飛行機が離発着をしている4000m滑走路)滑走路予定地の南端に、高さ20m以上ある鉄筋コンクリート製の平和塔を建てて、それを中心にして空港建設に反対する運動を続けていきました。

 1970年8月公団は空港の建設工事に着手し、農地をつぶしていきました。

 こうした情勢の中で、過激派集団の反対運動破壊に反対する人達が運動の幅を拡げるために1971年3月『三里塚空港から郷土とくらしを守る会』を結成しました。そして、空港の名前が一般的に『成田空港』と呼ばれるようになり、会も『成田空港から郷土とくらしを守る会』に変えて現在に至っています。

 会員は地元周辺住民を始めとして約150名、それに団体会員が約20団体でした。

 会は「地元周辺の住民生活を空港がもたらすあらゆる公害から守るために、主に、調査研究の面で貢献し、行動する。」という目的で設立されました。

 設立当初から航空機騒音公害に対する啓蒙運動から始まり、飛行機が飛び始める前の地域の騒音調査(暗騒音調査と言う。結果は1974年7月月に資料集;3として発行。)、開港前のテスト飛行から開港後の飛行機の騒音測定を数多く実施、開港時の1978年7月には[@夜9時すぎの発着を禁止する。A現行便数を凍結し、増便させない。B1機毎の取り締まりを強める。C年度内に70WECPNL区域の防音補償を。D空港計画の全面的再検討。]と言う、資料集;5『騒音軽減に関する五つの提言と参考資料』を発表、公団主催の騒音対策委員会に1972年4月の第1回より欠かさず参加し住民の要求を反映させるなどの活動を行い、現在も住民の力になるべく活動しています。

 現在の連絡先は

        成田空港から郷土とくらしを守る会事務局 

        Eメールアドレス km_iwata@sannet.ne.jp